小学校から順次実施される次期学習指導要領の答申で、アクティブラーニングと呼ばれる学習方法の導入が提案されております。
「学習指導要領改訂 新たな学びは実現するのか」
出典 NHK ONLINE(時論公論)2016年12月23日
中教審・中央教育審議会は、4年後、小学校から順次実施される次期学習指導要領について答申しました。小学校で英語を教科とするほか、アクティブラーニングと呼ばれる学習方法の導入などによって、新たな学びを実現しようとしています。
ここで、アクティブラーニングとはどのようなことを指すのでしょうか?
アクティブラーニング
出典 産業能率大学
アクティブラーニングとは、教員が一方的に講義を行うという授業スタイルではなく、あくまでも学生が確実に知識を学びとるための方法に主眼を置いた授業形態を指します。
アメリカ(National Training Laboratories)の調べによると、授業から得た内容を覚えているかを半年後に調べたところ、定着率の高い学習方法を定着率の高い順に並べると、「他の人に教える」、「自ら体験する」、「グループ討論」の順になりました。一方、最も定着率の低い学習方法は、ただ黙って講義を聞くという結果でした。つまり能動的に授業に参加し、行動を伴いながら学ぶことが学習定着率向上につながるのです。
アクティブラーニングという能動的な授業は、ただ黙って講義を聞く授業より、学習の定着率が高いということは、重要な視点です。
即ち、アクティブラーニングでは、知識量が勝負となる日本での典型的な詰め込み式授業よりも、結果的に高い学習効果が期待できる訳です。
アクティブラーニングの学習方法のひとつとして、ディベートが挙げられているのに、私は我が意を得たりと心強く思う次第です。
何故ならば、私は、ディベートこそ現在の日本の閉塞感を打ち破る新たな学習方法であると考えているからです。
前回は、アクティブラーニングが必要とされてきた背景を探りました。
今回は、日本の敎育の問題点について考察してみたいと思います。
さて、私は、現状の日本の教育に大きな問題があると思っております。
それは、日本の学校では答えがある問題しか教えない、ということなのです。
現代の社会では、利害関係が複雑になっており、かつ物事が進むスピードが早くなっているため、社会で生じる問題の多くは過去体験したことのない、言わば「答えのない」問題ばかりになっているのです。
国際的にコンサルタントとして活躍している大前研一氏は、「答え」のない現代では、新しいものを生み出せない日本の教育には深刻な問題点があると警鐘を鳴らしております。
出典:大前研一 日本の衰退に歯止めをかけるには、教育の抜本的改革を
21世紀のサイバー社会に大きく転換しつつある今、「答え」が必ずしもあるわけではない。先進国に追いつけ追い越せ、の時代は「お手本」「答え」が確かにあった。今はそうではない。人間の「才能」が再び問われる時代となっているのである。「才能」とは優れて個人の持つ潜在力であり、それは年齢に関係ないものだ。従来の工業社会では先に生まれて経験を積んだ人間が先生になれたが、今はそうではない。ここに“型にはめる”ことを主目的とした古い教育システムから抜け出せず、新しいものを生み出せない日本の教育の深刻な問題点があるのだ。
答えのない世界では、新しいことにトライして、試行錯誤していく能力が問われる。「リスクを取る」ということが、正解への唯一の道となる。リスクを軽減しながら、答えがない危険な道を歩むことが、成果を出すための当たり前の方法となるのだ。しかし、そもそも学校の先生になる人は、リスク回避型の人が多いように思える。学校を卒業する時に「教員免許をもらったら一生安泰」と考える人は少なくないのではないか。
先生は「先に生まれた」と書くが、経済原論などがこれだけ変わると、先に生まれたからといって教えられる時代ではない。「teach」には「答えがある」という前提がある。だから、先に生まれた方が答えを知っていれば教えてやる――これが「teach」の意味するところだ。答えがあるものを「teach」するのだから、裏返せば、答えがなければ「teach」できないということだ。
ところが、とりわけ北欧の国々ではその概念は教育においては間違いだと考えており、むしろ生徒が「learn」するのを助けるのが教師の役割であるという認識である。これは、「エンパワーメント(能力開化)」という概念に結実し、次第に欧米の教育理論の主流になりつつある。日本でも福祉の世界には取り入れられつつあるようだが、教育の世界は遅れをとっている。
今の世の中は答えのない時代。つまり、ストレートな答えをくれる人などいないのが当たり前だ。だから「先生」ではなく、あくまでも「教師」であり、かつその教師の唯一の仕事は「生徒が学び、そして考えるのを助けてあげる」ことだ。そのためには、生徒が疑問を持った時にどうやって答えに至るかを側面支援してあげること、答えに至るまでの感動と興奮を生徒と分かちあうことが欠かせない。そして、教師の最も大切な役割は、これが答えに至る道ではないか、という仮説を検証しながら未踏の道を進む、その「勇気」を与える仕事へと変わっていくだろう。
大前氏と同様の懸念を表明しているのが、評論家として有名な田原総一朗氏です。
田原総一朗氏も、社会での問題に正解は無いのに、小学校から大学まで日本の教育は正解のある問題を解く事しか教えないと日本の教育を批判しております。
出典:田原総一朗氏のTwitter
実は、日本の教育に重大な欠陥があります。小学校から大学まで日本の教育は正解のある問題を解く事しか教えません。この対極のが今評判の、ハーバード大学の講義です。正解のある問題を解くには学生達のコミュニケーションは必要なく、また想像力も発揮できません。それに社会での問題に正解はほとんどありません。教育とはコミュニケーション能力や想像力を高めることです。電子教科書は検索で答えを引き出す事が出来、自己完結型になってしまいます。今の教育のまま電子教科書を導入すると教育の欠陥が助長される事になってしまいます。
例えば、ブレーンストーミングや国際会議等で日本人はあまり発言しません。正解を言わないと恥ずかしいと思っている。それに対して欧米人はどんどん発言する。間違いであろうと、早く、そしてどんどん発言するのが能力のある事だと教えられているからです。
これでは日本は国際社会から置いてきぼりをくってしまいます。中学高校の時から、正解のない問題に対してどんどん発言をし、コミュニケーション能力を高め想像力を高める事が必要です。
次節に詳しくお話をいたしますが、私の米国ビジネススクールでの経験からして、田原総一朗氏の「ブレーンストーミングや国際会議等で日本人はあまり発言しません」との指摘は、正に的を射ていると言わざるを得ません。
日本は否が応でもグローバル社会に引き込まれてしまっております。このグローバル社会経済で自分の利益を追求したり守る為には、皆を説得しなければなりません。
一方、日本人は現状の日本教育の欠陥のせいで、意見の異なる人々と議論を積み重ねて結論を出すことが苦手なのです。
こうした状況を考えれば、「これでは日本は国際社会から置いてきぼりをくってしまう」とする田原総一朗氏の意見は傾聴すべきと、私は考えます。
今回は、日本の学校では答えがある問題しか教えないという日本の敎育について考えてみました。
次回は、米国の例を取り上げながら、ディベートの活用について論じてみたいと思います。
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