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ディベートの必要性

ディベートの必要性

米国ではディベートが学校教育の一部になっているといわれています。一方日本では一部の教育機関以外では、ディベートを学ぶ機会がありません。
では、どうして日本ではディベート教育がないのでしょうか?

日本の歴史からディベート不在の理由を探ります。

日本人は単一農耕民族

日本の文化の特徴は単一農耕民族であることです。

単一民族であることは同じ価値観と同じ言語を共有しているということです。

同じ価値観と同じ言語を共有しているということは伝えたい内容は詳細に説明しなくともおよそ分かってしまうということです。

また、農耕民族ということは全員である時期に農作業を実施しなければならないため、知識のある長老の指示にしたがい議論をすることなく農作業に従事しなければならなかったわけです。ここで長老に従うことが良いことであると認識されたわけです。

こうした単一農耕民族の背景から、日本では議論をすることは十分に大人になっていない青臭いことだといわれ、長老が指示することを理屈ぬきで受け入れ、その指示に従っていくことが美徳とされるようになってきたのです。

こうした社会ではもともと議論を交わす習慣がないわけですから、議論の仕方など身につくこともありません。

KY(空気が読めない)の意味

こうした風潮は実は過去のものではありません。現代でも、言葉は変わっても実態は大きく変化してはいません。

KY(空気が読めない)という言葉が使われますね。

実はこのKY自体もこの単一農耕民族の背景から生まれてきたといっても過言ではないのです。

KY(空気が読めない)とは、その発言や行動は不適切であり、周りの気持ちや状況を人から言われなくても理解しろ、ということです。

勿論、軽い意味では、仲間通しの遊びのような一面もあります。それはそれで、楽しいことではあります。

しかし、KY(空気が読めない)には、昔の農耕民族時代と共通の部分があるのです。

それは、議論を排除する、あるいは、皆と認識・行動を合わせなければいけないという半強制的な圧力があることです。

つまり、皆様もKY、KYといつも言われると、行動を慎んだり、回りに気を使ったりして、仲間外れにならないように、意識に行動せざるを得ないということです。

アメリカは多民族国家

それでは、日本に対して、アメリカはどうでしょうか?

アメリカは典型的な多民族国家です。いろいろな文化的背景を持ち、言葉さえも異なる場合があるのです。

ここでは自分の考えをコミュニケートすることで相手を説得し合意に持っていかざるを得ません。必然的にコミュニケーションが重視され、説得するために論理性が必要となってきます。

この為の教育こそがディベートであるわけです。

米国では、政治家を志す人、またビジネスでも上級管理職を目指す人は、必ずといってよいほど、ディベートで論理性とコミュニケーション能力を訓練しているのです。

こうした社会では、個人の独自の主張は尊重されるため、決してKY(空気が読めない)と言われることはないのです。それどころか、新しい視点を持っている人は、尊敬されるほどです。

そのため、日本人でも学問や芸術などで、外国で先に認められ、その後日本で評価が高まるということが、よくあるのです。

KY(空気が読めない)こそ、ディベートが日本に根付かないひとつの要因なのです。

それではなぜ日本にディベートが必要なのでしょうか?不在ということは不要だからではないのでしょうか?

ディベートがなくとも、皆が仲良く仕事ができるのではないか、そうした疑問に答えます。

ディベートというと話題になっているのがハーバード大学のマイケル・サンデル教授です。その授業「Justice(正義)」は対話型のディベートを取り入れることで白熱した講義になっているのです。では実際に講義を見てみましょう。

ディベートとマイケル・サンデル教授の授業「Justice(正義)」について

大学教育というと、最近ではハーバード大学のマイケル・サンデル教授が話題になっています。

NHK教育放送で、「ハーバード白熱教室 Justice」を毎週日曜日夕方に放映されていたからかと思います。

また、マイケル・サンデル教授の授業「Justice(正義)」はTV放映だけでなく「これから「正義」の話をしよう」というタイトルで出版もされておりますので、ご覧になった方も多いかと思います。

ご存じない方もいらっしゃるかもしれませんので、マイケル・サンデル教授の授業については、NHK教育の番組紹介を見てみましょう

出典:NHK ウェブサイト ハーバード白熱教室 Justice

創立1636年、アメリカ建国よりも古いハーバード大学の歴史上、履修学生の数が最高記録を更新した授業がある。政治哲学のマイケル・サンデル教授の授業「Justice(正義)」である。大学の劇場でもある大教室は、毎回1000人を超える学生がぎっしり埋まる。あまりの人気ぶりにハーバード大学では、授業非公開という原則を覆し、この授業の公開に踏み切った。ハーバード大学の授業が一般の目に触れるのは、史上初めてのことである。

サンデル教授は、私たちが日々の生活の中で直面する難問において、「君ならどうするか?何が正しい行いなのか?その理由は?」と、学生に投げかけ、活発な議論を引き出し、その判断の倫理的正当性を問うていく。マイケル・ジョーダンやビル・ゲイツはその仕事で、すでに社会に貢献しているのになぜ税金を納めなければならないのか。また代理出産、同性愛結婚、人権など最近のアメリカ社会を揺るがす倫理問題も題材となる。絶対的な答えがないこのような問題に、世界から選りすぐられた、さまざまな人種、社会的背景を持った学生が大教室で意見を戦わせる授業は、ソクラテス方式(講義ではなく、教員と学生との闊達な対話で進められる授業形式)の教育の最高の実例と言われている。

サンデル教授の講義は、ビデオで見られるだけでなく、この講義ビデオを使って、自らあるいはグループや別な講義として取り扱えるような配慮もあります。

それが、ディスカッションガイドで、講義の論点が分かりやすく記載されているのです。

このディスカッションガイドも引用してみましょう。

出典:ディスカッションガイド(NHKウェブの日本語での解説)

功利主義から始めよう。功利主義の原理によれば、私たちは常に、何であれ最大の幸福を生み出すことをするべきであり、何であれ最大の不幸を避けなければならない。しかし、それは正しいことなのだろうか?私たちは常に幸福を最大化するよう、努めるべきなのだろうか?私たちは常に何であれ、不幸を最小限にしなければならないのだろうか?

1. 多くの人に害をもたらすことを避ける唯一の方法が、少数の人を傷つけることである場合がある。多数の人に危害をもたらすことを避けるために、少数の人を傷つけることは許容されるか?

2. あなたは狭いトンネルを運転していて、作業員が道路の目の前に落ちてきたとする。車を止める時間はない。直進すれば、作業員に衝突して 殺すことになるが、急ハンドルを切り対向車線に突っ込めば、スクールバスに衝突し、少なくとも5人の子供を殺すことになる。何が正しい行いなのか?功利主義には正しい答えがあるのだろうか?

3. 一万人の無実の民間人が、戦時中の国で軍需品工場の隣に住んでいる。その工場を爆撃すれば、彼らは全員死ぬ。爆撃しなければ、工場は他の国の五万人の無実の民間人に投下される爆弾を生産することになる。何が正しい行いなのか?

4. ある男がニューヨーク市に爆弾を仕掛けたとする。そして、警察が二十四時間以内にその爆弾を発見できなければ爆発する。警察が疑わしい爆弾犯人から情報を引き出すために、拷問することは合法だろうか?
爆弾を仕掛けたある男は、彼の無実の家族を拷問にかけなければ、爆弾の場所を明かさないとする。それが巨大爆弾のありかを発見する本当に唯一の方法だとしたら、警察が無実の人々を拷問することは合法だろうか?

私も「ハーバード白熱教室 in JAPAN」(2010年8月25日の東大安田講堂での講義)をテレビでみました。

正直、こんなにワクワクする講義とは考えてもいませんでした。

日本の大学の講義の多くは、教授が学生に一方的に話すという、いわば一方向で講義が進んで行きます。

これに対して、サンデル教授の講義は、サンデル教授が学生に質問をして学生が自分の意見を述べることで進行していくという、つまり双方向なのです。

この講義形態は対話法ともいわれ、ソクラテスが始めたといわれています。

つまり、サンデル教授の講義はディベートを取り入れたものなのです。

ディベートを取り入れることで、「白熱」した講義となっているのです。

マイケル・サンデル教授の授業「Justice(正義)」の内容をみる

サンデル教授の講義は、サンデル教授が学生に質問をして学生が自分の意見を述べることで進行していくということ、つまり、ディベートの一つの対話法を活用して講義しているということがわかりました。

ここでは、ハーバード大学のサンデル教授が実際にどのように授業を進めているのかを見てみたいと思います。

実は、この講義はウェブ上で公開されております。

その為、ハーバード大学のJusticeのウェブサイトでは、解説と講義ビデオを誰でも見られるのです。

なお、講義ビデオには、英語字幕が表示されますので、英語が聞けなくても何を言っているのか解るかと思います。

講義ビデオ(ハーバード大学の英語での講義)へのリンク

Harvard University’s JUSTICE with Michael Sandel

なお、講義を日本語のテキストに翻訳したウェブサイトがありますので、第1回講義「殺人に正義はあるか」の冒頭を転載したいと思います。

出典:VisualLectureのウェブサイト

(注:「君は猛スピードで走っている路面電車の運転手で、行く手に5人の労働者がいることに気付いて電車を止めようとするが、ブレーキは効かない。が、脇にそれる線路待避線があることに気付く。ハンドルをきって、脇の線路に入れば、1人は殺してしまうけれども、5人は助けることができる」という仮定の問題に対して)

(サンデル教授) ここで最初の質問だ。
正しい行いはどちらか?あなたならどうする?多数決をとってみよう。

ハンドルをきって避けるという人は?手を上げて!
(大多数の人が手をあげる)
では、曲がらずに直進するという人は?
直進するという人は、手を上げたままで、、、、極少数の人だけだね。

大多数の人は脇にそれる。
なぜ、そうすることが正しいと考えるのか理由を聞いていこう。
多数派からはじめよう。
なぜ、直進せず、脇にそれようとするのか。
なんで、そうするのか?その理由は何か。誰か理由を説明してくれる人!

学生A:1人を殺せばすむところを5人を殺すのは正しくないからです。

(サンデル教授) 1人で殺せばはすむところを5人も殺せば正しくない。
たしかに。いい理由だ。
他には?皆この理由に賛成かな?君は?

学生B:911同時多発テロ事件と同じです。
ワシントンに向かった飛行機の乗客は地上で犠牲になる人より数が少ない自分たち乗客が犠牲になることを選んだからヒーローなんです。

(サンデル教授) そこにある原理は同時多発テロの場合と同じだと言うことだね。悲劇的な状況だが、5人が助かるなら、1人を殺すことの方がいいということだ。この意見がほとんどかな?では少数派の意見をきいてみよう。

ハンドルをきらない理由は何かな?

学生C:これは大虐殺や全体主義を正当化する真理と同じです。ある人種を残すために、他の人種を消滅させるんです。

(マイケル・サンデル教授) では君は?身の毛もよだつ大逆殺を避けたいがためにまっすぐ突っ込んで行って5人を殺すってことかな?
(会場笑い)

学生C:はい、たぶん。

(サンデル教授) 突っ込む?他には?今のは勇気ある答えだったな。

次に、サンデル教授は少し違った状況(新しい状況:路面電車の線路の先には5人の労働者がいる。ブレーキはきかないので、このままだと電車は猛スピードで突進して5人は死ぬ。あなたは橋の上から見ているが、自分の隣に橋から身を乗り出している一人の男がいることに気付く。もし、君がこの男を突き落とせば、彼は橋から走ってくる電車の前に落ちる。彼は死ぬが5人を助けることができる)を示します。

何故始めの問題ではよかったのが次の問題では変わるのか、サンデル教授は学生に問いかけます。

出典:VisualLectureのウェブサイト

さて、彼を橋から突き落とすという人は?手をあげて?

じゃあ突き落とさない人は?

突き落とさないという人がほとんどだ。(中略)

この2つのケースで多数派が矛盾した答えを選んだ理由がわかる人は?君!!

学生E:最初のケースは1人が死ぬか5人が死ぬかを選ばないといけないわけで、その結果、人は死にますが、死ぬのは電車が原因であって、自分が手を下したせいではないし、電車のブレーキは効かない上、一瞬でどちらかを選ばなければなりません。

でも、太った男を落とすのは殺人行為です。突き落とすか落とさないかは自分の選択だけど、電車の暴走は自分が選んだことじゃない。だから状況が違います。

今の意見に対して反論がある人は?いい意見だったが、今の意見が正解だろうか。

学生F:それは違うと思います。

どっちにしても、死ぬ人を選ばなければいけないのは同じです。ハンドルをきって、1人を殺すのも自分の意思による行為だし、太った男を突き落とすのも自分の意思による行為です。いずれも自分の選択であることに変わりはありません。

反論があるかな?

学生D:それはちょっと違うと思います。実際に線路に突き通して殺すという行為だと自分がじかに殺すことになります。

自分で手を下すからねぇ。

学生D:そうです。運転していたら、それが人に死をもたらしたのとは違います。不謹慎かもしれませんが。

いや、いい意見だ。君の名前は?

学生D:アンドル

ビデオを見ているだけでも、大変にスリリングで真剣なディベートに見入ってしまいます。

皆様が、このサンデル教授の講義に出席していたら、手を上げてどのような意見を述べるか、考え見たら面白いのではないかと思います。

マイケル・サンデル教授が対話型講義をする理由から日米の差を考える

何故サンデル教授は対話型の講義を続けているのでしょうか?

始めに当の本人の言葉を引用してみたいと思います。

NHKの番組において、サンデル教授はこの対話型の講義を続けている理由を次のように言っています。

出典:「ハーバード白熱教室 in JAPAN」(2010年8月25日の東大安田講堂での講義)

「学生たちにとって、親しい友人やクラスメイトの千人の前で立ち上がり意見をいうのには、かなりの勇気が必要です。意見をいうだけでなく、何故そう考えるのか議論を展開しなければなりませんし、反論を受ける覚悟も必要です。これができるようになれば、社会に出て民主主義社会の市民になって活躍するとき、大きな力を発揮し、自信につながると思うのです。」

そうです、サンデル教授は「社会に出て民主主義社会の市民になって活躍する」人材を育てたいと考えているのです。

民主主義国家のもとでは、物事は議論や対話を通じて理解され決定されていくのです。

その議論や対話で、大きな力を発揮できる人材をサンデル教授は育てているのだと私は思います。

米国の大統領選挙のディベートを見ても、こうした考え方は実感できると思います。

一方、米国と同じ民主主義国家である日本ではどうでしょうか?

2010年9月にあった民主党代表選の状況を見てみましょう。

出典:民主党ウェブサイト 2010/09/09

代表選挙の立会演説会が9日午後、札幌市内で行われ、平日にもかかわらず演説会開始前から詰めかけた聴衆は1万人以上にのぼり、今後民主党を、そして日本をリードすることになる小沢一郎、菅直人両候補の、熱い訴えに耳を傾けた。

それぞれの持ち時間の15分を使って演説した両候補は、政治主導の重要性を訴えるとともに、円高、雇用対策などに関する自らの考えを表明。日本を根本から変える政策の実現を訴えた。

演説会は、小平忠正中央選管委員長が進行を務め、村井宗明中央選管委員が両候補を紹介した。また、演説の様子はインターネット同時中継でも発信され、民主党代表選挙における民主党の透明性を高める演説会となった。

勿論、直接選挙の大統領選と議院内閣制の日本とは状況は異なります。

しかしながら、ここで注目したいのは、日本では「15分を使って演説した」だけなのです。

演説とは、一方的に「大勢の前で自分の意見や主張を述べること(大辞泉による)」です。

また、民主党代表選で投票する議員はどのように投票者をきめたのでしょうか?

出典:産経ニュース 2010.9.9

「菅の最近の演説は話が堅すぎて人間味、おもしろみに欠ける」。陣営内では、こんな懸念がささやかれていたが、勢いがもう一つ上向かない。

ギラードとの電話会談を終えた菅は、首相官邸で国会議員の陳情を受けた。

相手は、比例代表単独で立候補し衆院議員になった1回生。与野党から比例にしぼった議員定数削減論が出る中、不安に包まれている議員たちを前に菅は「慎重に時間をかけて考えていこうじゃないか」と、比例削減を先送りするかのようなリップサービスをした。

夜には都内の料理屋で菅を支持する衆参1回生議員約30人が開いた会合に参加し、ふれあい戦術を展開。出席議員から政策を提言されると、「熱い思いを感じた。初心にかえってがんばる」と応じ、会場を去る際には議員の一人の両手を握り、「ありがとう。元気になるね、本当に元気になるよね」と力を込めた。

「人間味、おもしろみに欠ける」とされた管代表候補(当時)は、首相官邸で「国会議員の陳情を受け」た後、「夜には都内の料理屋」で「ふれあい戦術を展開」したというのです。

つまり、日本では、表にでない駆け引きや飲み会での「ふれあい」などで、票を獲得したといってもよいのではないでしょうか?

ここには残念ながらディベートの考え方は入っていないのです。

日米の差は色々な面から考えられますが、こうしたディベートの有無という切り口も重要ではないでしょうか

昨今の日本が抱える政治・経済・社会問題を考えると、表でもっと問題を議論・対話して良い解決策を考えだしていく力が、日本には欠けているのではないかと、私は危惧する次第です。

次に、正解のある問題を解く事しか教えない日本の教育に重大な欠陥があるという意見から、ディベートと教育について考えます。

ディベートと日本の教育における問題点

私には、日本の教育には大きな問題があると思われます。

それは、日本では答えがある問題しか教えないということなのです。

現代の社会では、利害関係が複雑になっており、かつ物事が進むスピードが過去に無く早くなっているため、社会で生じる問題には、解答がある場合は大変少なくなっていると思われます。

国際的にコンサルタントとして活躍している大前研一氏は、「答え」のない現代では、新しいものを生み出せない日本の教育の深刻な問題点があると警鐘を鳴らしております。

出典:大前研一 日本の衰退に歯止めをかけるには、教育の抜本的改革を

21世紀のサイバー社会に大きく転換しつつある今、「答え」が必ずしもあるわけではない。先進国に追いつけ追い越せ、の時代は「お手本」「答え」が確かにあった。今はそうではない。人間の「才能」が再び問われる時代となっているのである。「才能」とは優れて個人の持つ潜在力であり、それは年齢に関係ないものだ。従来の工業社会では先に生まれて経験を積んだ人間が先生になれたが、今はそうではない。ここに“型にはめる”ことを主目的とした古い教育システムから抜け出せず、新しいものを生み出せない日本の教育の深刻な問題点があるのだ。

答えのない世界では、新しいことにトライして、試行錯誤していく能力が問われる。「リスクを取る」ということが、正解への唯一の道となる。リスクを軽減しながら、答えがない危険な道を歩むことが、成果を出すための当たり前の方法となるのだ。しかし、そもそも学校の先生になる人は、リスク回避型の人が多いように思える。学校を卒業する時に「教員免許をもらったら一生安泰」と考える人は少なくないのではないか。

先生は「先に生まれた」と書くが、経済原論などがこれだけ変わると、先に生まれたからといって教えられる時代ではない。「teach」には「答えがある」という前提がある。だから、先に生まれた方が答えを知っていれば教えてやる――これが「teach」の意味するところだ。答えがあるものを「teach」するのだから、裏返せば、答えがなければ「teach」できないということだ。

ところが、とりわけ北欧の国々ではその概念は教育においては間違いだと考えており、むしろ生徒が「learn」するのを助けるのが教師の役割であるという認識である。これは、「エンパワーメント(能力開化)」という概念に結実し、次第に欧米の教育理論の主流になりつつある。日本でも福祉の世界には取り入れられつつあるようだが、教育の世界は遅れをとっている。

今の世の中は答えのない時代。つまり、ストレートな答えをくれる人などいないのが当たり前だ。だから「先生」ではなく、あくまでも「教師」であり、かつその教師の唯一の仕事は「生徒が学び、そして考えるのを助けてあげる」ことだ。そのためには、生徒が疑問を持った時にどうやって答えに至るかを側面支援してあげること、答えに至るまでの感動と興奮を生徒と分かちあうことが欠かせない。そして、教師の最も大切な役割は、これが答えに至る道ではないか、という仮説を検証しながら未踏の道を進む、その「勇気」を与える仕事へと変わっていくだろう。

大前氏と同様の懸念を表明しているのが、評論家として有名な田原総一朗氏です。

田原総一朗氏も、社会での問題に正解は無いのに、小学校から大学まで日本の教育は正解のある問題を解く事しか教えないと日本の教育を批判しております。

出典:田原総一朗氏のTwitter

実は、日本の教育に重大な欠陥があります。小学校から大学まで日本の教育は正解のある問題を解く事しか教えません。この対極のが今評判の、ハーバード大学の講義です。正解のある問題を解くには学生達のコミュニケーションは必要なく、また想像力も発揮できません。

それに社会での問題に正解はほとんどありません。教育とはコミュニケーション能力や想像力を高めることです。電子教科書は検索で答えを引き出す事が出来、自己完結型になってしまいます。今の教育のまま電子教科書を導入すると教育の欠陥が助長される事になってしまいます。

例えば、ブレーンストーミングや国際会議等で日本人はあまり発言しません。正解を言わないと恥ずかしいと思っている。それに対して欧米人はどんどん発言する。間違いであろうと、早く、そしてどんどん発言するのが能力のある事だと教えられているからです。

これでは日本は国際社会から置いてきぼりをくってしまいます。中学高校の時から、正解のない問題に対してどんどん発言をし、コミュニケーション能力を高め想像力を高める事が必要です。

米国の教育方法として、いままでハーバード大学を取り上げました。

しかしながら、米国ではこうした講義は大学だけでなく初等教育においても特別なことでは無いのです。

出典:玉川大学 第4・5回海外教育事情(連携)視察報告(1995-1996)

私達が参観したどの学校でも共通して示されたこと,それは「学校の役割の第1は『学力の育成』である」という考え方であった.(中略)

学力の育成とは単に知育の偏重を意味するものではない.児童・生徒にどのような力を育てようとするのかについて,学校は明確な目標を持っている.それは,セルフ・モティベーションの強い生徒を育てることにあり,自発的に問題を発見し,それを自分で解決して行く力の育成である.そして,その基本として「批判的な思考力」「懐疑的な思考力」が位置付けられていた.(中略)

Buckingham Browne & Nichols School(以後BB&N;)で授業参観した際に,5年生の教室で先生が私達を児童に紹介し「子供達に質問があったら何でもしてみてください」と言われる場面があった.私達から児童たちへのいくつかの質問の中に「日本のスポーツ選手で知っている人はいますか?」というものがあったが,すぐには回答がなく,しばらくたってから「アッ,知ってる,知ってる,ヒデオ・ノモは日本人だ」との答えがあり,次に「たしか,スケートのクリスティー・ヤマグチも日本人じゃなかったかしら」という返事が返ってきた.その後,しばらく児童たちでワイワイ言い合っていたが,「なぜ,私達は日本のスポーツ選手を知らないのかしら」「私達がテレビで見ているのは国内のスポーツだけだからさ」「つまり情報源が偏っているということになる」「ということは発信する側の情報を一方的に受け入れずに,こちらから必要な情報を求めればよいということになる」「ただし,なぜ外国のスポーツ選手を知る必要があるのかは別問題」などのやりとりが展開された.日常の些細な事象を通して「懐疑的」あるいは「批判的」な思考力を育てようとする姿勢が垣間見られる場面であった.

また,Dalton Schoolにおける歴史の授業(6年生)では,旧約聖書の創世記の記事を題材に,考古学上の事実と対比しながら,創世記の書かれた意味を考えさせようとする授業が展開されていた.BB&N;では,ギリシャのデモクラシーと米国のデモクラシーを比較検討する授業が行われていた.ギリシャは民主主義の発祥地ではあるが,貴族たちの下には多くの奴隷がいた事実をどう考えるか,など,調べた事実をもとに,徹底的に話し合う興味深い学習が進められていた.

米国では、初等教育から既にディベート時な授業が行われていることが分かりました。

次に、米国ビジネススクールにおける私の経験をお話いたします。

私は米国ビジネススクールを終了しておりますが、一般的に言ってビジネススクールの講義の多くは、ハーバード・ビジネススクールの作ったケースメソッドという講義方式をとっております。

ケースメソッドとは、いわば教授と学生の対話で講義を進めていく方式で、サンデル教授の講義と変わりません。

私の経験では、ケースメソッドの講義では、(外国に留学経験がある人は除き)日本人はどうしても発言が苦手でした。

勿論英語がうまくないという問題はあるとは思いますが、本質的には田原総一朗氏の指摘する「正解を言わないと恥ずかしい」と思う意識が災いしていることは間違いないでしょう。

何故なら、日本人よりもっと英語が下手な外国人が堂々と自分を主張しているからです。

様々な知識・考え方を持つ人がそれぞれの観点から意見を述べて、より良い解決策を見つけていくプロセスは、本当に日本人は不得手と言わざるを得ません。

田原総一朗氏の「ブレーンストーミングや国際会議等で日本人はあまり発言しません」との指摘は、正に的を射ていると言わざるを得ません。

こうした状況を考えると、「これでは日本は国際社会から置いてきぼりをくってしまいます。中学高校の時から、正解のない問題に対してどんどん発言をし、コミュニケーション能力を高め想像力を高める事が必要」とする田原総一朗氏の意見には傾聴すべきと私は考えています。

また、このような日本の閉塞的な状況の打開には、ディベートを導入するということが必要であると考える次第です。

一方、日本でも新たな取組が始まっています。

早稲田大学では新入学生の日本語で論理的に表現する力低下の対策として、「日本語の文章講座」を行うという報道がありました。

早稲田大学では近年理路整然と話したり、書いたりすることが出来ない学生が増えているため、新入生全員を対象に論理的思考力を育成すると発表をしています。その意味について考えてみたいと思います。

早稲田大学で新入生に「日本語の文章講座」

読売新聞を読んでいて、早大が新入生を対象にした「日本語の文章講座」を行うとの報道を見つけました。

その背景には、「理路整然と話したり、書いたりすることが出来ない学生が増えているためで、日本語で論理的に表現する力を身につけさせるのが目的」であるというのです。

2007年10月19日 読売新聞より

「新入生に「日本語の文章講座」、論理的思考力を育成…早大

学生の“日本語力”を引き上げようと、早稲田大学(東京都新宿区)では、来年度から、新入生を対象にした「日本語の文章講座」を行う方針を決めた。

理路整然と話したり、書いたりすることが出来ない学生が増えているためで、日本語で論理的に表現する力を身につけさせるのが目的。数年後には、約1万人の新入生全員を対象に実施したいとしている。

早大ではここ数年、「学生たちの論理的に考え、表現する力が落ちている」といった指摘が教員らから相次いでいた。ある教授は、「ゼミで議論をして も、自分の思いこみや考えを言いっぱなしの学生が多い。意見の論拠や、反対意見よりどう優れているかなどをきちんと説明できないので、議論が深まらない」 と嘆く。

早大はほぼ全員の学生を対象に、英語でリポートを書かせたり、議論させたりする少人数の英語教育を行っているが、講師陣からは「まずは、日本語でしっかり議論できる力がないとダメ」といった意見も出ていたという。

日本語で考える能力が落ちている背景について、早大は、読書量が減っていることやメールでのやりとりで短い文章しか書いていないことがあると分析。学生の論文の添削指導を丁寧に行うことで、日本語で考え、表現する力を向上させることを決めた。

「日本語の文章講座」では、2か月間、毎週違う課題が与えられ、添削は、日本語を専門的に学んだ早大の大学院生が担当。論文の提出と添削はインターネットを通じて行うことが検討されている。一つの新聞記事に対し賛成や反対の立場から書かせたり、自分で決めたテーマについて論理構成を意識して記述させたりするという。

初年度となる来年度は2000~3000人を対象に行うことを予定している。

田中愛治・教務部長は「日本語で論理的に考え、書いたり、話したりする力はすべての学問の土台。日本語を使いこなす力をしっかりと磨くことで、その後の専門教育が充実するはず」と話している。」

早大といえば、日本でトップレベルの大学です。

その難関を突破した学生でさえ、論理的思考ができなくなっているというのは、大変大きな問題です。

その兆候として、ある教授は、「ゼミで議論をして も、自分の思いこみや考えを言いっぱなしの学生が多い。意見の論拠や、反対意見よりどう優れているかなどをきちんと説明できないので、議論が深まらない」と指摘しているのです。

私的に言えば、その対策案に興味を持ちました。

それは、「日本語の文章講座」であり、その講座では、2か月間、毎週違う課題が与えられ、一つの新聞記事に対し賛成や反対の立場から書かせたり、自分で決めたテーマについて論理構成を意識して記述させたりするというのです。

これは、まさしく私が、提唱し続けている、ディベートそのものではないでしょうか?

早大と言う日本のトップレベルの学生でさえ、「日本語の文章講座」だという現状の問題もさることながら、その対策が、私がディベートの普及を目指し、メルマガを続けていた方向性と一致したことで、とても感慨深い報道でした。

マイケル・サンデル教授は現在のソクラテスともいわれております。そこで最後に、ディベートの祖とも言えるソクラテスとディベートの関係を学んでみます。

ディベートとソクラテス

ディベートを始めたのはソクラテスという説があります。

ソクラテスとは紀元前469年頃の古代ギリシアの哲学者であることは皆様も学んだことがあることと思います。

彼自身は著作をおこなわなかったのですが、その思想は、弟子の著作を通じて知られています。

その中で特に有名なのが、プラトンの著作「ソクラテスの弁明」です。

この中で、ソクラテスは相手と対話をすることで相手が無知であることを証明するという、いわば対話法といわれる手法を表しています。

この対話法によって、ソクラテスがディベートの祖と言われるのです。

こうした知識をお持ちの方は多いと思います。

しかしながら、どれだけの人が実際の内容を読んだことがあるか、疑問ではあります。

ここでは、出来る限り自ら原典を確認していきたいと思います。

ディベートを志すには、人の意見を鵜呑みにせずに、自ら原典に遡って確認することは重要です。

では、その対話の一部を見てみましょう。

出典:Plato :Apology Translated in English by Benjamin Jowett

翻訳者:永江良一 翻訳はProject Gutenbergのテキストに基づいています。

メレトスは、私が悪事をなす者で、若者を堕落させていると言います。だが。アテナイの人々よ、メレトスが悪事をなす者なのです。彼は真面目なふりをして、悪ふざけを行うばかりで、本当はわずかの関心すらない事柄に熱心さと関心を装っては、人を裁判にかけることに熱心なのです。それでは、このことが真実だということを、みなさんに証明することに努めましょう。

ここに出てきてください、メレトスさん。そしてひとつ質問させてください。あなたは、若者の善導ということに大いに気に掛けておいでですね。

そうですとも。

では、審判官たちに、だれが若者の善導者か言ってください。あなたはご存じにちがいないでしょうから。あなたは、せっせと若者を堕落させる輩を探すことに精を出し、審判官の前に私を召喚し告発したほどですものね。それでは審判官に若者を善導するのはだれか言ってください。メレトスさん、黙りこくって、何にも言うことがないみたいですね。でもそれは、かなり不面目なことではないですか。私が言ったこと、つまりあなたはこの問題にまるで関心がないってことの、かなりはっきりした証拠ではありませんか。友よ、遠慮なくおっしゃってくださいな。若者を善導するのは誰なのか教えてくださいな。

法律ですよ。

いや、それは私の言わんとしているのとは違いますよ、先生。私の知りたいのは人なんですよ。そもそも誰が法律に通じているのですか。

ソクラテスさん、それは法廷におられる審判官のみなさんですね。

メレトスさん、おっしゃりたいのは、この人たちが若者を教育し善導できるということですね。

そのとおり。

全員がですか、それとも何人かはできるけれどその他はできないのでしょうか。

全員です。

ヘラの女神にかけて、これは良い知らせだ。では、善導者はたくさんいるのですね。聴衆のみなさんはどうでしょうか。この人たちも善導するのですか。

そうです。

元老院議員はどうですか。

ええ、元老院議員も若者を善導します。

しかし、民会の議員は若者を堕落させるのでは。それとも民会議員も若者を善導するのですか。

善導します。

では、すべてのアテナイ人が若者を善導し高潔にするのですね。私を除く全員が、私だけが若者を堕落させると、こう断言するのですね。

私ははっきりそうだと断言します。

あなたが正しいなら、私はとても不幸ですよね。だが、ここであなたにひとつ質問をしたとしましょう。馬のことだとしましょうか。一人の人間が馬に危害を加えるけれど、他の人はみんな馬によくしてやるとしましょうか。それは事実とは正反対ではありませんか。馬によくしてやれるのは一人だけ、あるいは少なくとも大勢ではないですよね。言ってみれば、馬の調教師だけが馬によくしてやれるのであって、馬に付き合わなくてはならない他の人はむしろ馬を痛めつけるのではないでしょうか。メレトスさん、馬についてはそれが事実ではありませんか。あるいは他の動物についてもそうですよね。あなたやアニュトスさんが同意するしないにかかわらず、それはほとんど確かですよね。堕落させるのはただ一人、世の中の残りみんなが善導者なら、若者の状況はほんとに幸せなことです。しかし、メレトスさん、あなたは若者についてなんにも考えていないことを、十分明らかにしてしまったのですよ。あなたの無頓着さは、あなたが私に対して持ち出したまさにその事柄を気にかけていないということで、見てとれます。

いかがでしょうか?

大変興味深い手法であると私は受け止めております。

以上、ディベートの必要性についてご説明させていただきました。

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